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2015年 小泉八雲の世界



 2015/9/5 13:40~18:00 松江市総合文化センター(プラバホール)視聴覚室にて

 小泉凡さんの特別講演 
「文化資源としてのハーンとローエル」が終わったら長谷川先生にご挨拶をして退席しようと思っておりましたが、6名の研究発表に引きこまれて最後まで参加させていただきました。
 ローエルが何者か全く知らない勉強不足の私には火星の運河を発見とか冥王星の存在の予測をしていたとかNASAはローエルを神のように思っているとかローエルについてとても勉強になり、有意義な時間を過ごすことが出来ました。

野波(東本町)


          


 残念ながら、小泉凡さんの講演に行くことができませでした。
 最近、地元で開催されるイベントやテレビ番組で小泉八雲の話題に触れることが多いので、八雲の作品を読み返しています。八雲を研究されている方の解説を参考に、改めて作品を読むと、味わいが深まります。

「星でつながる偉人たち~八雲とローエル、そして抱影のこと~(PDF)
 これは、松江星の会の会誌「星月夜 2011.7」に投稿したもので、表記誤りを訂正しました。
 画像はその参考文献です。  
※星でつながる偉人たち(追加)
 いくつかの文献や資料からたどった偉人たちのつながりの一部です。
 1877年(明治10年)に来日したエドワード・モースが、帰国後に日本に関する講演会を行い、それを聴講したローエルが日本への渡航を決心したと記録されています。

 E.モース(1838-1925、米の生物学者。大森貝塚の発見で有名。)
 ↓
 P.ローエル(1855-1916)
 ↓
 小泉八雲(1850-1904)
 ↓
 野尻抱影(1885-1977)
 ↓
 保阪嘉内(1896-1937)
 ↓
 宮沢賢治(1896-1933)


星の文人「野尻抱影」が慕った八雲
 野尻抱影の作品には、八雲の影響を受けたことが記されています。

 「星座春秋」 野尻抱影 講談社学術文庫 p.24
 二月の黄道光
  「たしか小泉八雲先生は、南海の島の伝説の中に、青白い黎明の空を大魚の腹の色に比(たと)えられていられた。僕は二月の日没後の西天に見る黄道光の妖しい燐光を見るたびに、この比喩を思い出していた。・・・」

 「野尻抱影の本」 1 星空のロマンス 野尻抱影 (編者)石田五郎 筑摩書房 p.14
 星に親しむには
 「貴方もご存知の小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)先生が美しい文章で書かれた「銀河のロマンス」の中には、七夕の晩に雨が降り、天の川の水が増して両人が逢えないと、良(い)い目の人には、恋に悶える彦星が五色にきらめくのが、雨雲を通しても見えるとあったように記憶します。ここまで穿った伝説がどこの国にあるでしょうか、それとも先生のデリケートな空想がペンを走らせたのでしょうか、僕にはわかりません。・・・」


金津(石橋)


          


小惑星 (8113) Matsue と (8114) Lafcadio

 この2つの小惑星は私の367 Yatsuka八束天体観測所で発見したものです。
 2つの小惑星の登録番号が連続したことから、かねてから命名を考えていた私の第2の故郷である「松江」と松江に深く関係した名前を提案したいと考えました。
 提案は「Hearn」としましたが、国際天文学連合が命名したのはファーストネームである「Lafcadio」でした。ヘルン先生を命名したいと願った発見者としては、今でも残念に思っています。
 この教訓から、その後の提案にあたっては可能な限り替えられない、もしくは替えられても問題ない命名を提案をすることとしています。


(8113) Matsue = 1996 HD1
Named for a city located in the ancient Izumo district in western Japan.
A beautiful city rich in culture, history and archeological remains, Matsue
has been designated as an International Cultural Center.

(8114) Lafcadio = 1996 HZ1
Named in memory of Lafcadio Hearn (1850-1904). Born of an Irish
father and Greek mother on the Ionian isle of Lefkás, he worked 20 years as
a newspaper reporter in the United States before moving to Japan in 1890,
changing his name to Yakumo Koizumi and becoming a naturalized Japanese
citizen. He was commissioned by the Japanese Ministry of Education to teach
in a Shimane prefectural junior high school in Matsue, and from
insights and impressions gleaned during his stay there he wrote his first
and perhaps most famous major work on Japan, "Glimpses of Unfamiliar Japan".

命名は1998年2月11日にMPC(Minor Planet Circular)で発表されました。同17日、島根県立女子短期大学に勤務される小泉凡さん(小泉八雲のひ孫)を訪ね、命名を報告しました。


安部(八束)





   
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